幼い体験胸に東北後押し 復興へ町担う子育てる 阪神大震災25年 未来への記憶

写真のコンクールで発表をする中学生を見守る佐藤陽さん(11月、宮城県南三陸町の志津川中)
「絶望に陥れた海が8年の時を経てきれいに輝いている」「負けずに復興している姿を発信したい」。東日本大震災で800人以上が死亡・行方不明になった宮城県南三陸町。2019年末、町立志津川中で開かれた写真コンクールで、生徒12人は町の「今」を切りとった一枚に込めた思いを次々に語っていた。
運営を切り盛りするのが南三陸町で人材育成を手掛ける一般社団法人「クリエイタス」代表理事、佐藤陽(あきら)さん(29)。復興途上にある町の子供たちに愛郷心を育んでもらう試みだ。「毎年、子どもの目線で町の変化が見えるのが楽しい」。生徒たちを優しい表情で見守った。
仙台市で暮らす佐藤さんの故郷、兵庫県西宮市も約25年前、激震に見舞われ、弟(当時1)を亡くした。食器棚の下敷きになったと聞いたのは小学校入学後だ。
当時4歳の佐藤さんは両親、小1だった兄とともに一時、広島県尾道市の母の実家に身を寄せる。佐藤さんは転園した幼稚園で友達をつくれなかった。「つらかった」。約2年後に西宮市に戻り、小中高と過ごす。街の再建のスピードは速く、「物心ついたころには爪痕はなく復興していた」。日常的に震災を意識することはなかったのが正直なところだ。
そんな佐藤さんにとって東北の震災が転機となる。街頭で義援金を募り、宮城県石巻市で泥かきなどに汗を流した。復興には長期的な支援が必要になると見定め、13年4月に人材関連の大手企業の門をたたいた。教育事業を担う部門に配属。だが、「自分は誰のために働いているのか」との疑念が募った。
15年夏のある日の未明、東京の自宅から軽自動車を北に走らせた。「聞いたことのあった」南三陸町に着いた。町は西宮市から職員派遣を受け、被災者は口々にお礼を述べた。大変な思いをしたのに感謝の言葉を忘れない被災者の姿勢に感動し、「肩の力を抜き、被災地のために頑張ろう」と思い直した。
16年9月に退社。南三陸町の将来を担う人材を育てるべく、学習支援やキャリア教育を担う公営塾の立ち上げを提案し続け、17年6月、開校にこぎ着けた。
無償の塾は県立志津川高校で1カ月に20日、午後4〜9時に教科の補習を行い、生徒の進路相談に応じる。佐藤さんは運営を支える側に回り、塾を紹介するチラシを毎月、町内の全戸に届けている。中学校の職場体験学習では培った人脈を生かしながら、漁師ら受け入れ先を探す。教員と一緒に授業計画も練る。
活動を続ける中で、震災で大切な人を失った町民の悲しみに触れる機会がある。進路相談を受けた高校生から家族を亡くした悲痛な思いを打ち明けられたこともある。「阪神大震災で息子を亡くした両親の気持ちはどうだったのか」と思いを巡らすようになった。
多くの被災地同様、南三陸町も人口減少に拍車が掛かった。震災前の1万7666人から直近では5千人近く減った。道路や住宅などの再建が進む一方、人が離れては町の復興はままならない。クリエイタスが17年に志津川高の生徒約200人を対象にしたアンケート調査では、81.8%が「南三陸町が好き」と答える一方で、自分が「復興の力にはなれない」との回答も67.2%に上った。
「地元には仕事がない」として町を去る若者が多い中、「『ないならつくる』との起業家精神を養ってもらう」のが佐藤さんの目標だ。学校長や保護者代表、地元業者らと立ち上げた協議会で具体策づくりに向けた議論を重ねている。
東日本大震災とその後の活動は内なる阪神大震災を問い直すきっかけになった。当時のつらく悲しい「原体験」は今、むしろ「気持ちのエンジン」となり、佐藤さんを突き動かしている。(文 黒瀧啓介氏、写真 目良友樹氏)
■配慮必要な小中学生 ピーク時は4106人
阪神大震災で亡くなった幼稚園児〜大学・短大生は400人以上に上り、県内の教職員40人も犠牲となった。
震災は子供の心理面にも影響を及ぼした。兵庫県教育委員会の調査では、教育的配慮を必要とする小中学生はピークの1998年度に4106人。被災当初に目立つ要因は「震災の恐怖によるストレス」「住宅環境の変化」。5年後を境に「家族・友人関係の変化」「経済環境の変化」の占める割合が高まった。学校側は「復興担」と呼ばれた加配教員を中心に子供の心のケアに当たった。
校舎が無事だった学校には地震直後、多数の被災者がなだれ込んだ。避難所となったのはピーク時に1153カ所。31万6678人が身を寄せ、一部では廊下まで人があふれた。遺体安置や救護所としても使われた。教職員は避難所運営の担い手に。負傷者は保健室で受け入れたが、当初は医療機関への電話もつながらず、混乱が広がった。

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